夏目漱石と平八茶屋
明治の文豪 “夏目漱石”と平八茶屋は昔から関わりがあり、
著書に度々名前が出てきます。
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1867年(慶応3年)、江戸の牛込馬場下横町(現:東京都新宿区)で生まれた夏目漱石は、大学時代、俳人・正岡子規と出会い、俳句を学びました。
この正岡子規との出会いが、その後の漱石に多大なる文学的・人間的な影響をもたらしました。
子規との交流は、1902年(明治35年)、子規が亡くなるまでずっと続いたそうです。
明治25年7月~8月、大学の夏休みを利用して松山に帰省する子規とともに夜行列車で訪れたのが、漱石にとって初めての京都でした。
この後、漱石は3回京都を訪れております。
7月7日に新橋駅をあとに京都に向かい、翌8日より2日間、子規とともに柊家に滞在しました。
7月9日、漱石と子規は平八茶屋に立ち寄り、川魚料理を食した後、比叡山に登ったことが日記より窺えます。
7月10日には2人とも京都を発って大阪へ向かい、そのまま子規は松山へ、漱石は親戚のいる岡山へ向かいました。
ひと月後の8月10日、漱石は松山に帰省している子規のもとを訪れました。
子規の実家で出会ったのが、のちに漱石を職業作家の道へと誘うことになる当時15歳の高浜虚子でした。
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大学を卒業した漱石は、教師として教壇に立ったものの、神経衰弱のため療養や職場変更を繰り返しました。
そんな最中、明治33年に文部省より英語研究のため英国留学を命ぜられたのですが、そこでも神経衰弱に陥り始め、明治35年12月に帰国いたしました。
帰国後、教師として再び教壇に立ったものの、気分は晴れず、明治37年12月、虚子の勧めで処女作となる「吾輩は猫である」を執筆し始め、明治38年1月、『ホトトギス』に1回の読み切りとして掲載されました。
これが好評を博し、続編を執筆。
この時から、漱石は作家として生きていくことを考え始めたようです。
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「虞美人草」の最初の部分
甲野と宗近の会話 -
明治40年2月、一切の教職を辞して、朝日新聞社に専属の職業作家として入社しました。
漱石、41歳。契約も整い、その年の3月28日より15日間、2度目の京都を訪れ、糺の森にある京都帝国大学文科大学学長の狩野亨吉の家に滞在し、東山を中心に京都市内の名所・旧跡を次々と回りました。
4月9日、漱石と狩野亨吉と友人の菅虎雄は、朝早く食事を済ませ、比叡山に登ったと日記にあります。
その日の日記の終わりに「十一屋。平八茶屋。高野村に行く途中山端にあり。
御前川上、わしゃ川下で…」と記載されております。
この時は、比叡山に登るために店の前を通過しただけのようでした。
翌日10日、奈良へ行く途中、京都に立ち寄った高浜虚子と春雨の中、平八茶屋を訪れ、昼飯に川魚を食べたようです。
その後、漱石は虚子の泊まっている三条小橋の宿「万屋」に入り、風呂に入ったのち、
都踊(都をどり)を観にいきました。
そのまま糺の森の狩野の家 に帰る気も起らなかった漱石は、その後、祇園の一力亭に向かい、一晩中遊んでいたようです。
この京都での旅は、漱石の心に非常に印象深く残り、その時の経験をもとに、その年の6月、職業作家としての初めての作品「虞美人草」の連載を開始しました。
「虞美人草」の最初の部分、甲野と宗近の会話の中で、
〝「今日は山端の平八茶屋で一日遊んだほうがよかった。
今から登ったって中途半端になるばかりだ。元来頂上まで何里あるのかい」
「頂上まで一里半だ」
「どこから」
「どこからかわかるものか、高の知れた京都の山だ」〟
と、甲野が音をあげるところに当家の名前が出ております。
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「門」第十四節
宗助と安井のやりとり -
漱石は満州・韓国の旅行を終え、満鉄社員の大塚素と3度目の京都を訪れました。
三条小橋の「万屋」に泊り、嵐山温泉、大悲閣、神護寺、高山寺と京都の西方面を中心に回ったようです。
この頃、前期三部作といわれる「三四郎」「それから」「門」を順に執筆し、朝日新聞に掲載していきました。
「門」でも第十四節の宗助と安井のやりとりの中で、
〝ある時は大悲閣へ登って、即非の額の下に仰向きながら、谷底の流を下る櫓の音を聞いた。
その音が雁の鳴声によく似ているのを二人とも面白がった。
ある時は、平八茶屋まで出掛けて行って、そこに一日寝ていた。
そうして不味い河魚の串に刺したのを、かみさんに焼かして酒を呑んだ。
そのかみさんは、手拭いを被って、紺の立付見たようなものを穿いていた。〟
と、川魚については、あまりいいようには書かれておりませんが、ここにも当家の名前が出ております。
昔の料理屋というのは、食べてそのままごろっと寝てといったそんなところだったのかもしれません。
大正4年、漱石は4度目の京都を訪れました。この時は木屋町の旅館北大嘉に宿泊したようです。
旧友の津田青楓と西川一草亭の3人で、宇治の黄檗で普茶料理を食べ、平等院、興聖寺と宇治周辺を巡ったようです。
漱石が京都を訪れたのはこの4回。漱石にとって、京都はどのようなところだったのでしょうか。
それは、子規との思い出の地であり、虚子や旧友との再会の地であり、神経衰弱の療養の地であり・・・。
「見る所は多く候 時は足らず候 便通は無之候 胃は痛み候」。
漱石にとって、東京との文化・習慣の違いにかなり戸惑いを持ちながらも、幾度となく訪れた京都。
漱石の作品の所々に、京都で体験したことが出てきております。
高浜虚子もまた、京都でたくさんの句を作っております。
その中で、実際に当家の名が出てくるものが、二つあります。
平八に自働車又も花の雨
平八と春水隔て隣りけり
虚子の著書、「子規・漱石」の“京都で会った漱石氏”の中で、漱石と当家を訪れたときが、ちょうど春雨の降っている日であったところから、この句が作られたのではないでしょうか。